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人にとっての「写真」の本質とは?

2012年6月26日
「写真が紙とテレビが電気と結びついた時代は過去のものとなっているわけであり、要するに映像と物質との一義的な結びつきは、あらゆる情報がデジタル化されてしまえば、ほとんど意味をなさない。」港千尋『映像論』pp.3-4
写真の概念はカメラのデジタル化によって、大きく変化したと言われている。では、何が変わり、何が変わっていないのか。自分なりに考えてみた。
現代においての「写真」は、アナログカメラを含め、デジタルカメラ、携帯電話のカメラ機能やパソコンに内蔵されたカメラ、動画からの切り取り等によっても表すことが可能である。さらに、画像データとして様々な場所へ送り、受け取ることができる。この環境は、「写真」という概念を大きく変容させた要因の一つと考えられる。デジタル化以前は、印画紙にプリントし物質的なものとして確認していた。しかし現在ではその形を変え、データとして保持することが当たり前となっている。つまり、物質的なものに置き換えなくても、画像としてデータ化された時点で、求める写真として成立していることが言える。消費社会において、データとしての「写真」の存在は、撮影と同時に人の記憶に結びつき、そこで写真として生成されていると言えないこともない。それほど、「写真」とい概念は動きを見せていると自身は感じている。その一方で、次のようなことも言える。2011年3月の地震による津波の影響で、すべてを流されたひとにとって、どこかで拾われて手元に戻ってきた家族の写真が心の支えになっていることを、ニュースで聞いた覚えがある。この写真は、もちろん紙にプリントされた物質的なものである。すべてを失うこと、家族を失うこと、つなみがあったという事実、様々なことが今という環境を作っている。そこに存在するぼろぼろの写真には、崇高ささえ感じられる。つまり、持ち主と写真との間に起こる関係性が、その写真を存在させている、とも言える。まったく同じ写真が複数枚あったとしても、一枚に関わる想いに差は、唯一無二の存在へと変化させていくのではないだろうか。もちろん、画像データとして発見できたとして、それをパソコンで、見たときにも別な形での想いが発生する。
概念は大きく変容している「写真」だが、本質的な部分で言えば、その写された像を支えているのは、そこに関わるヒトの想いであり、その像を見るヒトにあるのだと自身は考えている。表層的な事実のみを写真とするのではなく、その写真の深層部分に関わることが、写真の本質なのではないだろうか。